訃報:山田春美さん
皆さんに大変残念なご報告をしなければなりません。数日前、病床にいらっしゃった山田春美さんが日本にて亡くなられました。
山田春美さんは、チェコ日本友好協会にとってまさに欠くことのできない存在でありました。彼女ほど協会のために尽くした方はいらっしゃいません。ご自身もその1人であった日本語教師のコーディネート、墨絵講座、本の出版、展覧会のオーガナイズ、新年の挨拶状制作、他多数を手がけました。私達の多くを個人的に教え、貴重なアドバイスを与え、支えとなってきました。まさに彼女のやさしさ、献身、途切れることない熱意が新しい会員を協会にひきつけ、協会の1人であり続けることの意味を与えていました。更には人生に意義を与えさえもしていたのです。協会と学生たちにこれほど多くを与え、協会のため、プラハと日本の関係のために尽くした人は他に居ません。

私個人は、1997年以降チェコ日本友好協会内で春美さんと会うようになり、交流を深めたのはここ5年余りのことです。そういった中で今でも思い出すのは2004年の出来事です。ソヴォヴェー・ムリ-ニで狂言公演を行った際、春美さんは準備、そして公演自体も手助けしてくれました。公演終了後に私の方に歩いてくる彼女を見て、他の方々同様に公演の成功を祝いに来てくれたのかと思っておりますと、「オンドラ、この1年半京都でどれだけ狂言を学んできたのかはわからないけれど、あなたの日本語はいまだにひどいわね!」と言ったのです。この言葉はまるで、ひどくうぬぼれた日本語学科修了者をいさめる冷たいシャワーのようでした。日本語に限らず何かへのモティベーションを、この時ほど強く感じたことはありません。これが春美さんらしさだったと思うのです。愛情にあふれ親切でありながら、歯に衣を着せず物事を断ずるような、そんな強い人でもありました。そんな彼女とうまくやってゆくのは、決して簡単なことではありませんでした。
ですが、まさにこんな彼女であったからこそ、協会の理事会メンバーに様々な場面で再考と方向修正の機会を与えてきたのだと思います。
いまだに、彼女のエネルギーの源が何であったのか不思議に思うのです。日本との交流、語学授業のコーディネート、協会内での授業の実施、プラハの日本語学科や他の学校での授業、新年コンサートや弁論大会のオーガナイズ、教科書制作、更には、皆がやれるべきことをきちんと果たせているのか注意を払う。自分ができることはどんなことでも、当然のようにこなしていたのです。事務に始まり行事のボランティア探し、更には家具の位置が悪ければそれまで自分で移動させてしまう。とにかく、物事が実現を待っているように見えれば、自ら実行していました。もし春美さんが関わらなければ、プラハにおいてこれほどの多くの日本関係の催しが実現されることは無かったでしょう。人にモティベーションを与え最後まで実行させる力を、春美さんは持っていたのです。チェコに住む日本の方々とチェコ人との関係は、春美さんなしに今のレベルにはなかったと思います。
プラハ市は、両国間を直接結んだ彼女の功績を表彰する決定をしました。春美さんはどの催しの場にも存在し誰とでも交流することで、目立たないがそれなしには成り立たない、扇の要のような役割を果たしていたのです。
一般に「誰にでも代わりは居る」という言い方をします。ですが、春美さんについていえばこの表現はあてはまりません。春美さんなしに、この先どうやってゆけばいいのだろう。彼女がいたときほど上手くいくことは無いと感じてしまいます。
「身に染むや 亡き妻の櫛を 閨に踏む」
協会の事務局や教室の扉を開けるとき、あるいは彼女が遺した教科書を開くだけで、私達や春美さんの生徒たちの多くが、この俳句に詠われているような感覚を抱くことでしょう。しかし、春美さんがこれを望んでいるとは思えないのです。
春美さん、多くの人たちがFacebookに、あなたからどれほどの恩を受けたか、どれほどのインスピレーションを与えられたか、何を教えられたのかについて書いています。皆、あなたを語学教師以上の存在としてとらえているのです。これは私達の想像を越える事態であり、あなたが逝ってしまった後に残ったものです。私たちができることは、あなたが学生たちの心に芽吹かせたものをこの先も育て、花開かせる場所を与えることだけでしょう。そのために私たちはできることをしていきます。どうぞ見守っていてください。
春美さん、心からありがとう。
オンジェイ・ヒーブル
チェコ日本友好協会理事長